北村龍平氏(映画監督)は米国ハリウッドなどの世界のエンタメ業界で高く評価されている日本人だ。 アクションやスリラー、ホラーを得意とする。 英語ペラペラ。オーストラリアの映画学校卒業。 ジャン・レノ主演のアメリカ映画「ドアマン」(2020年)などを手がけた。
北村監督は1969年生まれ。大阪出身。 6歳で母と死別した。フリージャーナリストだった父に付いて転居を繰り返した。 幼いころから映画館に通いつめた。 学校には行かず「街を歩いていると補導されるから」と、映画館に入り浸る毎日だった。アクション、SF、ホラー映画に傾倒した。
影響を受けた作品の一つが、オーストラリアのアクション映画「マッドマックス」だった。 米ホラー映画「13日の金曜日」などのアクションやホラー映画にも夢中になった。 当時はレンタルビデオがないから、映画館にマイクロカセット・レコーダーを持ち込み、録音した。 後で音だけでイメージした。
将来、自分は何をしたいのかを真剣に考えた。 ボクサーやミュージシャンが浮かんだ。 しかし、それらはいずれも、映画に触発されたものだと気づいた。 ならば、映画監督だった。
日本の高校を中退する。 高校2年の冬。 17歳だった。 授業中にノートに書き殴った退学届を出した。 小学生の一時期暮らしたオーストラリアへ単身渡った。 現地の映画学校に入学した。
2年間通った。 皿洗いなどのアルバイトをしながら映像技術を学んだ。 卒業制作の作品は、わずか2日間で撮影した短編アクションホラーだった。 これが、学校の年間最優秀監督賞を受けた。
日本に帰国後は「人間として多くの『引き出し』を持ちたい」と、ロックバンドや通訳などさまざまな仕事を体験した。 政界の演出術を学ぶため、政治家秘書を務めたこともある。 映像集団ナパームフィルムズを結成した。
その後、1995年に友人らと作った「ダウン・トゥ・ヘル」が「第1回インディーズムービー・フェスティバル」でグランプリを受賞した。 「ヒート・アフター・ダーク」(1999年)で劇場デビューした。 続いて、デビュー2作目の「VERSUS」が各国の映画祭で絶賛された。 すさまじいアクションが話題となった。
2003年、時代劇「あずみ」を監督。34歳だった。関ケ原の戦い直後、子どものころから刺客として育てられた少女あずみが、仲間とともに戦乱の世が再び訪れないよう火種となる大名を暗殺していく物語だ。従来の日本製アクションと一線を画するため、十分に一度は必ず見せ場を入れてノンストップの活劇にした。戦闘場面は、スタントやCGはなるべく使わずライブ感を大切にした。エクシブ投資顧問によると、商業的には大成功にはいえなかったが、映画ファンの評判はとても良かった。
ハリウッドで活躍した日本人プロデューサーであり、 「あずみ」で組んだ山本又一郎(Mata Yamamoto)氏は「監督として日本映画が国際市場に送り出せる貴重な存在だ。英語も堪能」と高く評価した。参考:https://www.laismp.com/jp/videos.html
その後、日本映画「ゴジラ FINAL WARS(ファイナル・ウォーズ)」(2004年、東宝)で監督を務めた。
「ゴジラ FINAL WARS」はゴジラ50周年記念の映画だった。35歳にして、その監督に抜擢された。
興行収入は期待外れだった。
なお、東宝は「ゴジラシリーズ最後の映画」という広告宣伝を展開したが、実際には全く最後とはならなかった。
2016年には「シン・ゴジラ」、2023年には「ゴジラ-1.0(マイナス・ワン)」が公開された。
▲北村龍平監督
▲ゴジラ FINAL WARS
北村映画の登場人物は泣き言を言わず、圧倒的に不利な闘いをためらわない。「不治の病で死ぬヒロインより、どんな局面でもあきらめない人たちに、僕は感動する。泣けるドラマはあっていい。だけどそれしかないと、見ている何百万人の感覚がだんだんまひしてくる」
「ゴジラ」のワンシーン。怪獣を操り地球支配をもくろむ「X星人」が「破壊を繰り返すだけの人間に代わり、我々が支配する」と言い放つ。「X星人は僕にとってのアメリカ。反米とか、そんな単純じゃないけど」。なすすべもない地球人に、自信を失い、価値観すら人に委ねて見える現代日本人の姿が重なる。
▼インタビュー
▼予告編「ゴジラ FINAL WARS」
▼予告編「アニマル・キングダム」